前回の記事⇒【休学×就職活動】帰国して現実と直面する時
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皆さん、こんにちは( `―´)ノ
休活ブログ月曜日ライターの川崎明美です。
最近は就活もはじまり、忙しい日々を過ごしています。
記事を書くのも遅れてしまって運営の方にもご迷惑をおかけしてしまって申し訳ないです。もっと気を引き締めないといけませんね!
さて、今回の記事は何を書こうかなーなんてぼんやりと考えているのですが
なかなか良い話題が思いつかなくて困っています(笑)
ゆっくりとですが私の思っていることについて書きたいと思います。
読んでほしい人
留学中の方
海外在住中の方
留学×気付き
当たり前だ!と言われると何も言い返せないのですが
「人はそれぞれ違う」
という事ですね。
特に国境を超えるとそうです。
宗教、文化に習慣、家族関係、たくさんのその「人」が過ごしてきた、またその「人」を取り巻いていた環境というものがもたらす影響力の大きさにはすごく驚いたエピソードがいくつかあります。
その中でも今回は宗教についてお話ししたいと思います。
ある意味ではかなりセンシティブな話題になるので気分を害される方がいらっしゃるかもしれません、その点はご了承して頂けるとありがたいです。
ここは日本じゃない・・・
まず、私の祖母は仏教徒ですし、私の祖父の葬儀は当然のごとく仏教のやり方で行われたのできっと私の葬儀も仏教の仕様で行うんだろうなぁという漠然とした考えはあるので、
そういった意味では仏教徒かもしれませんが、基本的には無宗教です。
つまりは自分の意思ではどの宗教にも属していません。
それが良いことだとも悪いことだとも思いませんし、
他の宗教を否定するわけでもありません。
ただ、私の趣味のひとつに「ロザリオ集め」というものがあります。
その名の通りロザリオを集めるのです(笑)
「ロザリオ(ポルトガル語: rosário、ラテン語: rosarium)は、カトリック教会において聖母マリアへの祈り(アヴェ・マリア)を繰り返し唱える際に用いる数珠状の祈りの用具、およびその祈りのことである。ロザリオの祈りは、カトリック教会における伝統的な祈りで、「アヴェ・マリア」を繰り返し唱えながら福音書に記されているイエス・キリストの主な出来事を黙想していく祈りであるが、ミサなどの典礼行為ではなく、私的な信心業として伝わるものである。基本となる祈り方(数え方)が定められていて、珠の数・形状もそれに沿って作られている。」(Wikipedia参照)
というもので、ネックレスのような形であったりブレスレットのような形をしているものがあったりその国や地域の信仰でかなり違いがあるんです。
それが私にとってすごく魅力的で、またロザリオそのもののデザインや色遣いであったり、中には香りがついているものもあり、訪れた国や教会などでその教会や地域のロザリオを買うことをヨーロッパを旅行する旅の中の一つの目的としていました。
実際にロンドンでの留学期間である約11か月の間に10本ほど集めました。
で、そこまでは別にいいと思うんです。
ただの私個人の趣味ですからね(笑)
問題はここからでした。
私がロザリオをファッションとして私服の時に身に着け、学校に行ったのです。
今思えば浅はかだったな、と反省しています。(´・ω・`)
最近の若い日本人の方の多くが無宗教だといわれています。
つまりはあまり宗教のことを良くも悪くも気にしないんですね。
そのため、日本ではロザリオもファッションアイテム、もしくはアクセサリーとして
売られていることが度々あります。
しかし、本来ロザリオとはファッションアイテムではなく
キリスト教でのお祈りに使われるアイテムなんです。
感覚的に言うと仏教の数珠のようなイメージでしょうか。
日本で数珠をアクセサリーとして身に着けている方ってたぶんほとんどいらっしゃらないですよね?何故かというとそういう用途のためのものではないという認識があるためです
で、それをあまり深く考えていなかった私は
ロザリオを身に着けて学校に行くとイタリア人の友人にこう言われました。
「明美はクリスチャンなの?」
もちろん私はここで「違うよ」と否定したのですが彼女はこう続けました。
「じゃあどうしてロザリオを身に着けているの?そのロザリオの意味を本当にわかっていてそれを身に着けているの?」と。
それに対しての答えもノーです。
すると彼女は少し怒りの表情を見せながら
「じゃあつけないでほしい」
そう言いました。
そこで私はハッとしました。
そうか、ここは日本じゃないんだ
日本という無宗教の文化に慣れてしまっていた私はそこまでの配慮ができていなかったんですよね。そのイタリア人の友人は心の底から神の存在を信じていて、その存在を信じていない人に自分の信じている神聖なものを軽々しく扱われたことに怒ってしまったんです。
そんなことで?と思われる方もいるのではないかと思いますが、そこで出てくるのが先ほども記述しましたが「人はそれぞれ違う」ということです。
私はキリスト教を馬鹿にする気などまったくありませんし、むしろロザリオというものが美しいと思って身に着けたわけですが、その行動が侮辱まではいかなくても許せない人もいるという事ですよね。ちょっと考えれば気づけそうなことではありますが、意外と気づかないものです( ゚Д゚)
そのあと私はロザリオを外してそれから帰国するまで身に着けることはありませんでした。
ちっちゃいことではありますが人によっては傷つくことがあるんだな、という話でした。
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