休学経験者が当時の経験や考えを語る共同ブログ
休学中にタイでボランティアをした理由〜3.11から得たヒント〜
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前回の記事はこちら⇒それでも、僕は旅に出る
 

*「旅×ボランティア」の背景

「フザけた景色だ」と、屋上で洗濯物を干しながら呟いた。
雨上がりの5月中旬、タイはバンコクのとある場所に僕は転がり込んでいた。
綺麗な青空は高く高く、低い屋根のバラック街の上に広がっていて、その向こう側の遠くにはバンコクの“表の顔”であるビル群が見えた。
眼下では人々が往来し、バイクタクシー、肉体労働者、バイクを乗り回して遊ぶ子供たち、浮浪者、町のおばちゃんたち、「いかにも」といった風貌のプッシャーもいる。

ここに居る大半の人が、日本人からすれば考えられないほど貧しい生活をしていると思うと、なんとも言えない複雑で強烈な感情が湧き上がってくる。
ここに来て3日が過ぎても、未だに自分の中でこの言葉にし切れない感情が大きく渦巻いていて、半ば混乱しながらバンコクに点在する2700か所のスラム街のうちの1つの中にある保育園でボランティアをしている。

「ノンラーイ!ごはんアルヨー!!」
YUKIが下で呼んでる。
タダメシを食わせてもらえることほど旅人にとって有り難い事はない。
僕はタライに溜まった洗剤水を排水溝に流すと、階段を降りた。

 

 

 

・・・・・・・・・ポケットの中で買ったばっかりのiphone4Sが振動した。
かじかんだ手でポケットからそれを取り出してメールを確認すると、お世話になっている教授からだった。
2012年2月、一段と冷える深い夜に届いた一件のメールは、旅出発まで一カ月前となった僕を更に旅へと駆り立てるモノだった。

白井くんへ、お久しぶりです。タイ視察から帰ってきました。バンコクのスラムにある保育園を見てきました。ボランティアを募集してるみたいだからそこのウェブサイトのURLを貼っておきます。行けるなら行っておいで。

“スラム”なんて世界はテレビ画面の中だけのモノだと思っていた僕にとって、そのメールがどれだけの衝撃を僕に与えたのかはきっと当の教授さえ分かっていなかっただろう。
「貧しい子供たちが」「物乞いしかできない人たちが」「衛生面の悪い生活環境が」
そんな言葉を並べたどっかの支援団体の広告ならいくらでも見てきたし、その全てに現実味を感じる事ができずに見過ごしてきた。

しかし、このたった数行の「スラムでボランティアをしないか?」という趣旨のメールは僕の関心を一気に「スラム」という世界に僕を引き寄せた。
その理由はさらに一年前の僕の誕生日の日へと遡る事になる。
2011年3月11日という日が、まだ人々の心の中で風化していない事を願いながら、「その理由」について綴っていこうと思う。
東日本大震災が起きたその時、僕は高校の卒業式を翌日に控えて部活の友達と昼から焼肉をほおばりながら、翌日の卒業式について談笑していた。
まさに昼時、気持ちが悪くなるぐらいの大きな揺れはやってくる。
友達がすぐにワンセグでニュースを確認すると、NHKは事態の異常さを繰り返し伝えていた。
店員が焦りながら駆け寄ってきて「本日お代は要りませんので安全にご帰宅ください」と言う。
当時は能天気な高校生なので事態の大変さもわかっておらず
「タダ肉だー!」なんてはしゃいでいたが、電車は止まるし町の雰囲気も日常とは異なっていた事をよく覚えてる。

あの日は確かにいつもの町にあった日常が一瞬にして非日常に入れ替わっていた。
家族全員の安否を確認した後は、ただひたすら地震と津波の様子を流し続けるテレビの画面を見ていた。
ニュースキャスターの読む原稿は誰が何を考えて作ったのか、テレビに映る政治家が言う言葉は何が根拠なのか、あの有り得ないような津波の映像は果たして本当なのか。

「真実」や「当たり前の常識」が、僕の中で音を立てて崩れ落ちた日だった。

自分の誕生日だったのと自分の内面への衝撃が相まって、悶々とした日々を数日間過ごした。
そして一枚のバスチケットを僕は「自分の答え」として買った。
3月20日、東京発―新潟経由―仙台行き
この当時「リアル」と呼ばれて流行っていたウェブ日記から18歳当時の自分の気持ちを抜粋してみることにする。

 

『俺は今回の震災を「他人事」だと思えない。なぜか説明できないけど。
ニュースをただ見ているのが嫌だ。東京は原発の放射能がどうのこうので騒いでるけど、それこそプロに任せとけよ。できることはいくらでもある。
自分が被災してないからいいと心の中で想う反面、「動かないと」とも思う。
俺はブレない。俺は俺だけの基準で決定を下した。』
2011年3月20日 22:49

それがさも現実かのように報道するテレビも新聞も誰かの噂も、何もかもが胡散臭く思えて仕方が無くなったのは、多分この時からだろう。
思えば、あれが初めての一人旅だったのかもしれない。

まだボランティア団体なんて何も無くて、「買い占め」という行為が東京で横行していた時、僕は人生で初めて1人で行動を起こした。
今振り返ってみると、震災直後に1人で被災地に乗り込むなんて危なっかしいと思わないでもないが、それでも頭より身体が先に動くタイプの僕には自分の肌で感じた事が何より信じられる事だった。


様々な不安や周囲の目なんて
自分の内側から湧き上がる感情には勝てやしないのだ。

もちろん自分がその感情から目を逸らさずにいれさえすれば、だが。
僕は約2週間、宮城の沿岸沿いである荒浜という地域で市民ボランティアをした。
主に沿岸部での泥作業を地元の人たちと一緒にやっていた。
汚泥を被った農家の掃除、畑に流れ込んだ流木の撤去、崩れた土塀の片づけetc
同い年、若い社会人、おじさん、農家のおじいちゃん、色んな人達と汗を流して力仕事をしてみて、僕は二つの大きな事実に気づけた。

ニュースが報じる“現地”は編集が施された、とても偏ってるモノであるという事。
一緒に働いた被災地の人たちはテレビに映し出される人達ほど悲観的じゃなかった。
前向きに協力して、淡々と仕事をしていた。
そしてその姿を見た僕は、もう1つの大きな事実に気付いた。
それは「人間存在の強さ」 だ。
家族や親類、友達が亡くなった人が一緒に働いてる人達の中にはたくさんいた。
絶望だとか、悲しみとか、そんな言葉で形容できるものではないほどの壮絶な状況であるにも関わらず、それでも彼らは黙々と汗を流していた。
葛藤なんていくらでもあっただろう、目の前の現実なんてとても直視できるものじゃなかっただろう。
それでも、それでもだ。
彼らのそんな姿をこの目に焼き付けて、事実を知りたいのであれば自分の肌で感じる事が一番だと分かっただけでも、こんな言い方は良くないかもしれないが僕の初めての1人旅は大成功だったのだ。

「ボランティアを通してその場所により深く入っていく」
これは震災ボランティアを経験した僕が世界を旅するにあたっての1つのテーマだ。
観光で行くような場所だけを繋げて周るような旅はしたくなかった。
なるべく訪れた国の様々な貌を見たいと思ったからであり、僕は既に贅沢な事をしている上にさらに欲張りだった。

しかし“欲張った”結果、僕は想像以上の世界を垣間見る事になる。

次回の記事⇒旅は怠惰に、好奇心赴くままに

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白井 耕平

白井 耕平

武蔵大学の人文学部2年。 アジア、アフリカが好きなヨーロッパ文化学科。 休学して世界一周していました。 旅関連の記事を発信していきます。 白井 耕平の詳細プロフィールページ
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