休学経験者が当時の経験や考えを語る共同ブログ
初海外、初一人旅、初カジノ
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前回記事⇒大学生活に希望は無かった

*胎動 ~初めての1人旅~

本を読む事は、小中高と僕にとって唯一の趣味だった。
中高校生の時、いじられキャラでサッカーの事しか考えていないような人間が
「趣味は読書です」とか言ったらネタにされるだけなのはわかっていた。
だからあまり人前で本の話はしなかったし、ひっそりと自宅で小説を読みふける事がしばしばだった。
大学生になったらなったで、部活無いし、サークルも無いし、地元から出るのもダルい。

つまり、ヒマだ。

夏休みともなればさらにヒマだ。用があるとすれば、バイトだ。
一冊、適当な本を自宅の本棚から、もしくは本屋で買ってはカフェの隅っこで読みふける。
200円のアイスコーヒーと煙草とipodがあれば十分贅沢な午後を過ごせた。
解放的な夏休み、大学に行かなくていい夏休み。
しかし、それはたかだか一カ月半の気休めでしかない事も分かっていた。

その日も、いつも通り親の本棚から気になった小説を一冊くすねてリュックに放り込む。
そして自転車で駅方面を目指す、音楽3曲分ぐらいの距離だ。
駅前のドトールの二階、窓際の一番右端の席がお気に入り。
大学生が大勢居る大学の食堂に1人でいる事と、ここに1人で座っている事は大きく違った。
当時の僕の居場所は、この町が見下ろせる窓辺の席だったからだ。
そしてここからはよく憶えている、それはあまりにも衝撃的過ぎた。

僕はリュックの中からその本を取り出すと、アイスコーヒーにミルクとシロップを入れ
それをかき混ぜながら一口飲むと、いつも通りの味にほっとしながらその本を開いた。
すると、僕はそこに書かれた文章に吸い込まれるように見入ってしまったのだ。

「トルコの囚人たちは、脱獄する事を隠語で“ミッドナイトエクスプレスに乗る”と言った」
著者は沢木耕太郎、題名「深夜特急」の第一巻香港・マカオ編。

この時の心境をどのように説明したらいいのか、もうすぐ2年が経とうとしている今でもわからない。
しかし、感覚だけは覚えている。
ジリジリと燃える導火線が火薬に辿り着いたような、そんな感じだ。
まぁそこに至るまでに約4カ月を要したのだが。
高校生時代とは打って変わって、陰に隠れたような生活に戸惑い、悩み

そして「大学生なんて、こんなもんだろ」

半ばそういった感想を持ち、薄暗い雰囲気を周囲に発散しながらも
やはり約10年間サッカーに注いできたエネルギーは不完全燃焼のまま
2010年8月のあの暑い日に留まったままだったのようだった。

その本を読み終わってから1週間後には成田発、香港行きのフライトに僕は乗りこんでいた。

約1週間の短い香港マカオ1人旅は、この後の自分の人生の航路を大きく変えた。
僕自身、海外にはそれまで一度たりとも行った事は無かった。
パスポートの作り方、ビザの意味、航空券の買い方、持ち物、宿、交通手段etc
その全てを自分で調べて目的に向かっていく過程そのものが、それまでのフラストレーションを吐きだしていくかのようでとても楽しかったのを覚えてる。

英語ができないとか

海外は危ないだとか、

そんな事はどうでもよかった。

とにかくこの溜まりに溜まった鬱憤をその旅で晴らしたかっただけなのだ。

だから香港での日々で何をしたかと聞かれれば、実は何もしてない。
本当に何もしてないのだ。
日本人宿に泊まり、夜も眠らない香港の街を徘徊し、ローカル飯をその名前も分からないまま食い、茶館で茶を飲んで香港人の爺共と一日を過ごした。
ただ僕の眼にその全てが、新鮮に、衝撃的に、そして興奮に満ちているように映ったのだ。
ネオンの明かりが眩しいネイザンロードを、一人ふらついたあの夜
様々な人種がこの世界にはいるのだと実感した。
アジア系と白人はもちろん、インド中東系のムスリムには恐怖すら覚えたし、
日本では渋谷で見かけるぐらいの黒人だってたくさんいた。
その人種の坩堝の中を、漂うように風が吹くままに歩く快感を、どう表現したらいいのか
僕の持つ語彙では不可能だ。

香港とは逆に、マカオではやることが決まっていた。
これがまた、スリルと興奮、恐怖と不安に満ちた経験だったのだ。
香港からマカオ行きの船に乗る事も、手持ちの金が心許ない事も
そしてマカオが雨だった事も、その全てがあの小説通りだったというのは
偶然ではなく、僕がそれを望んだからだと信じている。
そう、僕はギャンブルをやりにマカオへ渡ったのだ。
日本じゃパチンコもやらない僕が、いきなりあのラスベガスを凌ぐ勢いのマカオに挑んだ
それもこの旅の動機である深夜特急の主人公に則って。
この状況がどれだけ僕の勝負心に火を点けたかは、多分男の子にしか分からない世界だ。
毒々しいほど金の装飾がなされたバカでかいホテルの一階をぶち抜いた薄暗いホールで
フロア中央は全てギャンブルが行われているテーブル、
右側ではバーカウンターと奥にポールダンサー、
左側ではチップと金の換金所が、そしてフロアを満たすほどの人々が
日本じゃ考えられないスケールでそこに在った。
僕は一歩そこに足を踏み入れた途端、わけのわからない世界に恐怖を覚えて逃げ出したくなった。
だがそれでも約二万、全てをチップに換えていたから退くに退けなかったんだろう。
ビギナーズラック、という言葉はビギナーが勝った時のみ適用される言葉であって
世の中そんなに甘くはない、当然どんどんと負けていく。
最初に座ったテーブルはブラックジャックだったが、
高校生の時に10円の山を賭けて昼休みにやった“オママゴト”とはワケが違うのである。
飛び交う札束とチップの山、そして英語と中国語、唸りを上げるかのように積み上がっては消えていき、そしてまた積み上がる金、金、金。
負けが込むのも当然だった、すでに気持ちが萎縮していたのだから。
手持ちわずかとなって、はたと気付いた。場の流れに夢中になって忘れていたのだ。

僕は香港に帰る船代を擦っていた。

そして、残された金額は賭け分一回のみだ。
これには焦った、冷や汗と恐怖が溢れだして止まらなかった。
しかしさらに気付かされた“この状況であの小説通り大小をやらなくてどうする”と。
あの小説で主人公は大小という三つのさいころの出る目を足した数が11以下なら小、以上なら大というゲームの規則性を推理するのに夢中になって金を大きく使ってしまう。
そこで一回落ち着きを取り戻し、ゲームに仕掛けられたイカサマを見抜き、一気に巻き返して負けをチャラにするのだ。
迷わず大小のテーブルに向って、今までの大か小かを記録してある電光掲示板に目をやる。
これまで6回大が続いている、大衆の読みは当然確率に則って小だ。
プレイヤー側のBET時間が終了しようとした、その時
握りしめた最後のチップ二枚を“大”に置いた。
これを外せば、正真正銘の「一文無し」だ。
機械的にシェイクされる箱の中で、三つのサイコロが踊っている音が聞えた
呼吸が止まりそうだった、目の前の銀のドーム型の箱に祈った。
オープン。判決の時。
未だにあの時出た目は忘れられない。

4、5、6、で、大。

膝が震え、脳が痺れ、心臓の拍動が一気に加速した。
運気を掴んだ瞬間を感じ取ることができたのだ。
そこから僕はあの小説通り、一気に巻き返した。
大衆とは常に逆を行った、自分の直感を信じた。
積み上がるチップの山、10ゲーム終わった時にはすでに元の2倍を超えていた。
小さい額しか賭けていないとは言ってもずっと勝ち続けると周囲がその異変に気づく。
黒服を着た首元にタトゥの入った男が話しかけてくる、「もっと賭けろよジャップ」と。
「ノ―ノー」と、とりあえず返しておく。
そうするとディーラーの綺麗なおねーさんが広東語で話しかけてきたが
当然わからない素振りを見せると、にこにことこちらに笑顔を向けてくる。
そこからだった、ジェットコースターでいう下り坂の始まりは。
意味深な笑顔に集中力を乱された僕は運気をまた逃がしてしまった。
賭ける度どんどんと消えていくチップに戦慄すら覚えた。
「ダメだ、このままいったら喰われる」と思い
元の手持ちよりちょっと多いチップを抱えて換金所に一目散に逃げた。
約2万と5千円ぐらいになった金をポケットに突っ込んでカジノを出た時
とんでもないほどの疲労が全身にのしかかっていた。
しまいには頭痛と吐き気と熱をもよおすほどにまで疲れていた。
それだけの死闘だったのだ、僕にとっての初ギャンブルは。

そしてその熱に浮かされたまま帰りのフライトに乗り込み

「現実」が待つ日本へと帰国した。

次回記事⇒大学、不登校になりました。

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白井 耕平

白井 耕平

武蔵大学の人文学部2年。 アジア、アフリカが好きなヨーロッパ文化学科。 休学して世界一周していました。 旅関連の記事を発信していきます。 白井 耕平の詳細プロフィールページ
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