休学経験者が当時の経験や考えを語る共同ブログ
バンコクの表と裏を1人旅〜タイのスラム街〜
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*バンコクの表と裏

前回の記事から読んで頂けるとわかりやすいです!↓
「僕がボランティアとかいうことをしていた理由」

五月のバンコクは時折スコールと呼ばれる強い雨が短時間降りしきる。

ムワッとした湿気の匂いがする暑い雨上がりの夜、
僕はとある日本人宿の一階の共有スペースに置かれた椅子に腰かけ、いつも通りのコーラを堪能していた。

ここ一週間、怠惰極まりない生活を続けていて時間感覚は狂いに狂っている。
まず目が覚めるのは昼の2時だ。
陽の光が部屋に差し込んで寝づらくなるほど暑くなるまではひたすら寝る。
ようやくといった感じで服も身につけていない上半身を起こすと、枕元の薄汚いタオルをひったくって廊下にある共同シャワーに入って冷水しか出ないシャワーを浴びる。
しかし熱の籠った寝起きの身体にはコレが心地よく、最高の寝起きを堪能できる。
それから部屋に戻り、貴重品ポーチをじかに腰に巻いて上から適当な服を着る。
さらにポケットに小銭と紙幣を適当につっこんで、ふらっと宿を出てかの有名な「カオサンロード」へと歩く。

その辺の屋台で安いパッタイ(焼きそばみたいな食べ物)を腹に入れると、少し落ち着いてくる。
カオサン独特の雰囲気や熱気に浮かされて、その周辺をふらふらと散歩しながら雑貨屋などを見て周る。
10代の若造が昼間からやることも無く異国の繁華街を徘徊するー・・
などと、自分を客観視することは皆無だ。
俗世を離れた浮遊感と新鮮な刺激に身を任せて巨大なビル群や立ち並ぶ観光客向けの屋台、人々で溢れかえる雑踏の中を漂う。ただただ歩く。

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夕陽が空から落ちるのを合図に宿の一階へと旅人達が集まる、皆で示し合わせたわけでもなくだ。
それぞれ気の合う人達に声をかけて、夕暮れのカオサンへと、または夜の街パッポン通りへ消えていく。
僕も気の合う旅人二人と共に、カオサンの日本食料理屋「さくら」へと向かう。
かつ丼を注文し、料理が来るまで店にある漫画を読み、料理が来たら料理を食べて、食後の一服を吹かす。

陽もとっぷりと暮れた頃に僕はコーラを、彼らはビールを買ってまた宿の前に戻ってくる。
そこから空が薄く光り出す朝の5時まで脈絡も無く、ただひたすら話し込むのだ。
彼らは28、9歳で僕は19歳。
くだらない事から人生観まで、本当に学ぶ事は多い。

大学にまともに行かなかった僕にとって
旅はまさに「もう1つの大学」だった。

 

バンコクの表の貌は、とても賑やかで華やかで旅人達を楽しませていた。
しかし僕はその裏の貌にまで踏み込む気でいたのだ。
そこは地図の中にあっても名前は載っていなかった。
なにせタクシードライバーでさえ周辺の人に道を聞きながら進むほどであったから、多分旅行者はおろかバンコク市民でさえもあまり知られていない場所だったのであろう。
僕はバンコク市の南部、輸送拠点でありコンテナの積まれるエリアの隣に広がるスラム街へと乗り込んだ。

この時の心境はよく覚えている。
タクシーには「これ以上はわからない」と言われてその周辺で降ろされ、そこから道行く人にその住所を書いた紙を見せて道を聞きながら2時間ほどバックパックを背負って歩いた。
BTSとは違う輸送用だと思われるガード下をくぐると、背後に生い茂る発展したビル群はまるで嘘のような光景が広がった。
両脇にまっすぐに伸びる陸橋下の道には一見廃材置き場かと思われるような木やトタンでできた小屋が立ち並ぶ。
しかし、それらには中で人間が生きてるニオイがするのだ。
そしてアスファルトの上を低く舞うゴミやホコリがその場所に荒んだイメージを持たせる。
なぜかガードをくぐったすぐの所に日本でもおなじみのセブンイレブンがあり、その奥には東京の集合団地を思い出させる背の高い建物があった。
僕が目指している保育園は、どうやらその建物の向かいにあるようで道なりにまっすぐと進めば良いだけだった。

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その町のメインの通りに入ると、一段と生活感がする雰囲気になっていく。
もし彼らにとってカオサンが「仕事場」であるなら、ここは「住居」であり「生活圏」だった。
もっと言うならば、そこは外の人間向けにパッケージされていない“生々しさ”が露出している場所であったと言えるだろう。
メインストリートの両脇には背の低いボロ屋が広がっていて、どうやらそれは外の人間が言う所の「スラム」というやつらしかった。
そしてその中心部に、僕の目指していた保育園はあった。

わりとしっかりした2階建ての建物である、とは言うもののどうしたらいいかわからない。
門前でまごついてると通りかかった住民らしき中年の女性が声をかけてきたが、タイ語はさっぱりできない僕にその言葉は理解できなかったし、彼女も英語を理解しなかった。
僕は劇団員にでもなったような身振り手振りと、そして日本語でこう言った。
「学生です、日本から来ました、僕はここで働きたい」と。
なんとその女性はさっきまでの困惑した顔から一転し、中に居るスタッフを呼んできて明らかに僕の意図と同じ事を伝えた。
なぜそんなことが分かったのかというと、少しではあるが英語のできるスタッフが僕にこう言ったのだ。
「Do you want to work with us ?」
コミュニケーションの成立は使用言語の合致に限らない事を知った瞬間だった。

しかし、困難は続く。
お互い多少の英語ができたところで、どうやって仕事内容を伝えるのだ。
また僕がスタッフの方々から知ることのできるこの町の詳細な情報はほとんど皆無になってしまうこともだ。
黙って促されるままに階段を上がると、昔の記憶にうっすらと残っているような低い柵に入口をし切られ、中に可愛らしいぬいぐるみなどが置かれた部屋が3つ。
その中には0~3歳ぐらいの幼児が制服である水色のTシャツを着た他のスタッフ達と一緒に居た。
僕を連れてきたスタッフは、その中から唯一私服のまま子供たちのお世話をする若い女の子を呼んで彼女に僕の事について何か説明をしている。
他のスタッフよりも若く、明らかに僕と同い年ぐらいの学生だった。
僕と目を合わせて彼女はこう言う。

 

「日本人だよね?タイ語はできる?」

 

ポカン、とした顔であっけにとられてる僕を見てスタッフの人達は一斉に笑いだした。
「びっくりしてるー!!!」と言ってる事ぐらいはわかった。
それは驚きよりも衝撃であった。
英語すらもできない人しかいないこの町で、日本語を話すタイ人がいるのだ。
彼女の名前はYUKI、タイ人の父と日本人の母を持つダブルで、家の中では小さい時から日本語を使っていたために日本語ができるとの事だった。
そしてここでは通っている高校の選択実習でボランティアをしに来ていた。

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とにかく自分の事情、旅をしながらボランティアをしている事をざっと彼女に伝えた。加えて、カオサンの宿は引き払ってきたから泊まる所が無い事も。
「じゃあまずは泊まる所探さないとだね!!」と、彼女は言うと子供たちを遊ばせる一番大きな部屋で子供たちを寝かしつけているスタッフのチーフらしき女性に僕の事情を説明してくれた。
町のやり手のおばちゃん、といった風貌の彼女は僕の目を覗き込むように見るとゆっくりとYUKIを通して問いかけてきた。

「私はヤオ。あなたの名前は?」

「白井耕平です。ライっていう短い名前が呼びやすいと思います。」

「それじゃあ、あなたは“ノンライ”だね」

「ノン・・・ライ・・・?」

YUKIが説明してくれる。

「“ノン”っていうのはー、えーっと“君”かな!」

ヤオさんはニコニコしながら、更に言った。

「どうやってここに辿り着いたのかは知らないけど、君が来てくれた事が私は嬉しい。」

じわっと、安堵感と喜びが相まった感情が込み上げるのを感じた。

 

そうして僕のスラム生活が始まった。

次回記事⇒大学生の僕に世界は変えられない【in スラム】

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白井 耕平

白井 耕平

武蔵大学の人文学部2年。 アジア、アフリカが好きなヨーロッパ文化学科。 休学して世界一周していました。 旅関連の記事を発信していきます。 白井 耕平の詳細プロフィールページ
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