休学経験者が当時の経験や考えを語る共同ブログ
休学⇒就活の中で忘れがちなこと
このエントリーをはてなブックマークに追加

「休学の本質について考えてみた」という2013年6月の記事で、僕は以下のように休学に対する意見を書いた。まずはそこから今回は始めようと思う。

『学校を休み、“自分の時間を確保する”
ここが決定的な他の選択肢との違いであり、休学の本質だと僕は考える。
その時間を確保する事によって学校社会から束縛される事がなくなるのは確かであり、その休学期間をどう使うか考え出した時、それは自由の刑に処された人生の中で“自覚的に選択していく”ということを既に考え始めているのと同じ事である。
注意してほしいのはそれは何も“より活動的になる事を選択する”ということに限らずだ。休学する事によって“自覚的に選択して生きていく事”を強く意識するきっかけになるということではないだろうか。』

ここだけを切り取ると誤読されてしまいかねないので、なるべく全文読んでもらいたいと思う。
「休学の本質について考えてみた
もちろん、読者は暇な人に限る。先に言っておくと何か有益な情報などを書く気は毛頭ないので悪しからず。

さて、上記で「自分の時間を確保すること」、さらには「自覚的に選択して生きていくことのキッカケになりうる」というように当時の僕は休学を定義した。
今もあまりその定義は自分の中で揺らいではいない。しかしこれが全休学者に必ず当てはまるとも思っていない。不本意な休学者の方が実際の数は多いかもしれないからだ。

ということで、前回の記事では休学を「時間」の観点で書いた。
今回は「意味」に着目して書いてみようと思う。

休学に意味を求めた人たちが、休活BLOGではほとんどだと思う。
有意義、充実、有益、そういった言葉がライター達の思考の根底にはありそうだ。
一概には言えないが、とある方の「休活ブログが休学を就社に活かす方法論の提供サイトに帰着しそうな感じがもやっと」という指摘は僕も同様に感じていたところである。
例えば休学を「就職のための有効な手段」という結論に至らせてしまうと、それは休学の意味を矮小化させてしまうと思う。事実として就活が迫ってor就活をしてみて、なんらかの危機感を感じて休学するパターンの人は多い。それ自体を否定するつもりは全く無いが、就活が休学の始点となった人には上記のような結論によって休学の意味を閉じてしまうことが多々見受けられる。“閉じてしまう”というのは休学について「就職の為」以外の価値を自らロックアウトしてしまいかねない、という意味だ。とある教授はその事を聞いて「そういった人は“完成”する為に休学したんだね」と言った。

そう、何かの倒錯を起こしていると思うのだ。

あえて性格の悪い言い方をすれば、有意味的な休学をしたのにも関わらず休学によって引き出された(もしくはこれからも引き出され続けるであろう)様々な「就職の為」以外の意味をとうに過去のモノ、それもさして重要ではない事かのように素通りしてしまってはいないだろうか。というのも休学を就職までの“効率の良い遠回り”という、「完結が予定された過程」にのみ位置づけて、そして休学によって生起しうる様々な意味や可能性を全て就職に収斂させてしまっているように僕は感じることがある。本当はその期間にはもっと無数の意味があったはずなのに労働市場の要請に応じて取捨選択しているのは、果たしてそうして残ったモノが休学の意味だとしてしまっていいのだろうか?

なぜ僕がそういった問いかけをするのかと言えば、“How to シューカツ”に休学が吸収されつつあることを、先日のとある就活系イベントや休学者の記事から感じ取ったからである。休学は多様な選択肢をそこから生み出す一つの大きなプラットホームになれるはずであり(それがギャップイヤーに変遷する可能性もあるが)、それが旧来的な“良い就職への方法論”のみに定着するのはとても勿体ないと思っているからである。もちろん「良い就職に行くのが悪い」と思っているのではなく、くどいようだが単なる方法論的な位置付けにしてしまうには、休学者はあまりにも惜しい経験をした/するのではないだろうか?本当に大事なことは一体なんだろうか?

上手く言えないのが歯痒くて仕方がない。
抽象的にしか表現できないが休学は単なる一つの経路ではなく、「開かれた場」なのだと言いたい。極端なことを言えば論理的な一貫性に基づいた意味しかそこには“無かったことにする”というのは違うのではないかと思うのである。
もっと多様な意味がある時間ではなかったのか?就活の場面からすれば“どうでもいい”経験から、何か小さな気づきを、さらには新たな興味や発想を、その時間の中で生成していたかもしれない。

いや分からない。僕は海外に出て旅をしただけだし、国内に留まってインターンをやっていた人の経験を具体的に知ってるわけではない。ただそれでも浅はかな想像を巡らすのであれば、自分が働いてみたその業界から見る日本経済について、労働にまつわる社会問題について、もしくは世界規模の市場と政治的な動向との関係について、そういった自分の経験から派生する様々なトピックに注目し、調べてみるだとか、本を読んでるなどという事はないのだろうか?働いた経験それのみに自分の休学の意味を留めなくてもいいのではないだろうか。

さらに僕は疑問に思ってることがある。
休学は過去のモノだろうか?休学は履歴書や写真アルバムに収められてしまったモノだろうか?いやこれも僕には分からない。僕にとっての休学の位置付けは、フランスの大学に入学する為に勉強をしているこの現在に対して強い根拠を与える経験であり、同時に現在の僕が哲学や歴史や文学を勉強する際のある種のヒントになったり、具体的なイメージを作る為の根源になったりする。だから「楽しかった、良い経験だった」という過去形だけでは済まされず、自分にとっての現在形である様々な行動に直接的な影響を与えるような、“過去でありながら過去を飛び越えてくる時間”なのだ。

休学を本当に有意義なモノにしたいのであるなら、完結するべきではないと思う。
その時間は意味として終わることはなく、常に今に向かって開いていて、そして自分に対して何らかのヒントをくれていると思う。

過去の休学から今の自分へと引き出せる意味はまだあるように思える。

【関連記事】
「僕が読書をする理由」

540248_343465129070939_265417176_n

The following two tabs change content below.
白井 耕平

白井 耕平

武蔵大学の人文学部2年。 アジア、アフリカが好きなヨーロッパ文化学科。 休学して世界一周していました。 旅関連の記事を発信していきます。 白井 耕平の詳細プロフィールページ
このエントリーをはてなブックマークに追加