高校二年。
ぼくはある本に出会う。
今日は、その話をしよう。
「人とは違う何者かになりたい。」前回の記事でも書いたが、僕がそう思いはじめた所以。
一冊の本が、人生に大きく影響を与えた話。
城繁幸著 「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代」
この本が、僕の人生を変える。
それまでずっと、いい大学入っていい企業にはいって、そう、考えていた。それが当たり前だと思っていたし、正しいと思っていた。その考えが、見事に打ち砕かれる本だった。
年功序列、人気企業、など就職関連の話に始まり、人生観まで。社会にはびこる昭和的価値観を痛切に批判し、自由に人生を切り開く若きアウトサイダーたちを取り上げた本だ。
なんとなく本屋で手にとった本のせいでその後の自分の人生はブレにブレることになる。
そりゃそうだ。社会に出て3年目に行き詰まりを感じて、人生の意味を問いただし自分からアウトサイダーになった若者、当時の自分にとっては人生の遠く先を行く大先輩たちの本だ。
人生なんて考えたこともない。目の前の女の子かわいいくらいしか目に入っていなかった高校生の自分は、それはもうブレッブレになってしまった。
そっからはもう、狂ったかのように自分の進路、ひいては人生までを深く考えるようになった。
アパレル系に進むと言い出しては資料を集め
消防士になりたいと言い出しては資料を集め
挙句の果てに大学は行かないと言い張って親と大喧嘩。
別に何かやりたいことがあったわけじゃない。ただ、自分は”普通じゃない何者か”=アウトサイダーにあこがれていただけだった。
部屋の片隅に一度も読まれずに積んであるだけの資料。
それは若者の”普通ではない何か”への強いあこがれと、その強い憧れが日常にはちっとも影響を与えないことの、わかりやすいまでの証明であった。
大切なのは、その”普通ではない何か”の”何か”の部分であり、それが明確にならない限り、何者にもなれない。
しかし若者にとってはどうしても”普通ではない”という部分に視線が向き、「なんでもいいから、注目されたい!何かになりたい!」という中途半端で何の力にもならない、とてもぼんやりとした、でも果てしなく強い欲を抱くだけとなる。
そして、いつか夢を強く語り合った友と、安い酒を出すどーしよもない居酒屋でそのまずい酒を飲みながら、「あの頃は何も知らなかったから」「あの頃はよかった」と先の見えない愚痴を言うようになるのだろう。
そうなってしまえば、君も晴れて、あの頃なりたくなかった大人になれているはずだ。おめでとう。
普通。それはなかなか難しい言葉である。
僕らは子供の時、テレビの中のヒーローに憧れて、自分も実は特別な力を持っているんじゃないかと思い、バカ正直にわくわくしながら生きていた。
そのうち小学校にはいると、「周りと同じふうに」と規律が自分たちを縛るようになり、「周りがみてるから」やめなさいと叱られるようになる。
そして中学、高校、大学と、周りからの目が身の回りの世界の大半を縛るようになり、そうして外から型を押し付けられ、普通という言葉になじまされ
しかし心の中にはどこか小さい時の”特別”への憧れを忘れずに取っておく羽目になり、そして、その内面と外見の狭間に「普通ではない何かに」という到底かないそうもないしょうもない夢が出来上がる。
当たり前だ。
何かが分かっていないのに、その何かになれるわけはない。
そして、世の中に”普通”は存在しない。
「悲しい」「楽しい」「嬉しい」という感情が、その「悲しい」「楽しい」「嬉しい」という言葉に置き換えられるからこそその感情が心の中で形を成せるように、
「なんとなくもやもやする」という感情が、「なんとなくもやもやする」という言葉で表現できるように、
”言葉”に置き換えないと不安な人間が、特筆すべき属性を持たない状態のことを”普通”とよんだに過ぎない。
みんなちがってみんないいと、有名な詩人が詠んだように、みんな違うことを理解していれば、”普通”に怯えることもなくなるわけだ。
普通なんて物はこの世に存在しないわけだから。
だから、”普通ではない何か”になれないことに気づくこと、むしろ普通が存在しない以上、その”何か”が明確にわからない限り、君は何にもなれない。
そのことに気づいたこと。
その当たり前のことに自分で気づけたこと。
それが休学して一番よかったこと。
その何か。
それは、簡単なようでむずかしい。でも、それがわかった今、もうブレることはないだろう。






