休学経験者が当時の経験や考えを語る共同ブログ
【休学×学問】大学がつまらない人へ
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16卒の就職活動が本格的に始まった。
解禁時期が後ろ倒しとなったせいか、インターンの経験を企業側が学生に提供することはもはや当たり前になりつつあり、休学はその経験をより長期的かつ充実したものにするための制度として機能しているように見える。
しかし今回の記事は、そうした風潮とは全く別の価値観に基づいたものであり、そしてこの休活BLOGではどの記事でも触れられていない「休学の新たな姿」を提示するものである。
 

読んでほしい人

(学生)
・授業がつまらない人
・大学にいる意味が分からない人
・就活に気が向かない人
(社会人)
・大学関係者、および教育事業に携わる皆様
・教育に興味があるすべての方々
 

「なぜ大学の授業はつまらないのか?」

この記事を読んでもらう上で、まずは僕の状況を知ってもらう必要がある。
僕は武蔵大学の人文学部ヨーロッパ文化学科に所属していて、この春から5年生になる。
休学中に何をしていたかについては、僕の最初の記事から読んでもらえれば分かると思うので、ここでは「海外を旅していた」とだけ書いておく。
僕はとても成績が悪い。一年生当時は半期のGPAが0.26だったこともある。授業の欠席が多く、テストを寝過したことも数知れない。語学の授業でも容赦なく爆睡してしまうぐらいのひどい学生である。ついでに言うが、サークルには入ってないし友達も少ない。
ある日のことだ。大講義室の一番後ろの席を一人で陣取り、壇上で先生がフランスの文化事情について語っているのを眺めながら、僕はぼんやりと思った。

「つまんない」

退屈だった。暇だった。でも成績のことを考えると、多少はノートを取っておかないといけない。でもそんなことよりも、寝てしまってこの一時間半をすっとばしてしまいたい。
ということで僕は寝た。一時間半後、プリントにヨダレの染みがきっちり広がっていた。

「人文学部ヨーロッパ文化学科フランス語コース」というのが僕の所属先だが、そもそも「人文学」と「ヨーロッパ文化」という二つの単語はとても曖昧で何をやっているのかよく分からなかった。それに僕はこの学部学科に望んで入ったわけではない。たまたまテキトーに出願したら、ここしか残らなかったから仕方なく入学した。だからフランス語だって「ボンジュール」しか知らなかった。
長々と自己紹介をさせてもらったが、一言でこの状態を表すとするなら「なんで俺はここに来ちゃったんだろう」である。読者の皆様のなかに、こうした気持ちを分かってくれる人はいるだろうか?

なぜ大学の授業はつまらないのか、ねむいのか、だるいのか。
その答えは簡単だ。興味が無いからである。どうでもいいのである。
これは先生がどれだけ授業を面白くやったところで、なかなかに変わりがたい。
学生は授業がつまらないから寝る。先生はそれを見てイライラするか、諦めるか。
ともかく、どちらにとっても良い時間ではないことだけは明らかだ。

「興味」という言葉について、僕なりの解釈を書いてこの章は終わりにしたい。
言葉の意味よりも感覚として、「興味」は自然に湧いてくるもの、もしくは誰かによって惹き起こされるものだという考えが、わりと一般的なように思う。
例えば「先生の話に興味はない」と思った時、それは先生の話が自分の興味に一致するかどうかで判断していることになる。つまり受動的なのだ。
しかし「興味」という単語には、もう一つの意味がある。能動的な興味だ。
「興味」を分解すると、「興す(おこす)」「味」となる。つまり、自らが何かに対して味を興すことも「興味」の意味なのである。この側面を無視してしまうと、たいていの授業は「興味が無い」ことになってしまう。

どうすれば学問に対して「味」を「興す」ことができるのか?
それについて次で述べたい。
 

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「学問するために休学する!?」

この章のタイトルを見て「矛盾している」と思ったあなたは、確かにまったく正しい。しかしこの記事は学問なんてやってられない、お行儀の悪い人に向けたものであるから、普通の考え方ではないのである。
一日のうちに一時間半を2~4回分も寝て過ごすことを、無駄だと思いながらも、しかし授業はつまらないという人、大学にいる意味が分からない人は、是非ともこれを読み続けてほしい。
 
学問の味を興すためには、どうしたらいいのか。
それについて、僕は横暴な提案をしたいと思う。
まずはそのよどんだ空気が蔓延する教室から出るべきだ。
次に休学届を教務課から貰ってきて、「一身上の都合」とかテキトーに書いて提出する。
そして、サークルやバイトなどの人間関係から一旦離れる。
最後には、家を出て、行ったことのない場所を歩くのである。

結局は海外ですか世界一周ですか、あーそうですか。と、思ったそこのあなた。
べつに僕はどこに行ってもいいと思っている。
重要なことはどこに行くかではない。
既知の場所を離れ、未知があることを知るために歩くことが大事なのだ。
 
自分は何も知らなかったということを知る、それが学問のスタートだと思う。
そして未知の場所には、何があるか分からない。
言い換えれば、面白い何かが転がっているかもしれない。
少なくとも、つまらないと思いながら教室にいるよりかはマシだ。
面白い人に出会うかもしれない。不思議な話を聞くかもしれない。衝撃的な出来事を経験するかもしれない。変な物を見つけるかもしれない。
そしたらきっと、自分の内側から「知りたい」という欲求が湧いてくるだろう。
それが学問に「面白い」を見出す源泉である。 

僕は、休学におけるこの「かもしれない」に賭ける。 
なぜなら僕自身が、休学中に「かもしれない」ことをしたことによって、今は学問に興味があるからだ。GPA0.26だった人間が、本を年間130冊も読み、先生と5時間も話し込むような人間に変わってしまう。それが休学の、旅の、「かもしれない」という力である。
そして「自分を変える」ための手段は、法に触れないかぎり何でもありだ。なぜ大学に居なければならないのか。そんなことを誰が決めたのか。世界は大学やバイト先だけではない。

退屈ならば、飛び出せばいい。「知りたい」を探しに行こう。
 

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「休学→就活とは別の道」

この春から同い年の人たちが「社会人」になる。加えて、休学していた一個上の人たちも同様である。僕はその動向をぼんやりと眺めている状態だ。
年が明けたある日、いつも通りにファミレスで本を読んでいると、地元の友達がたまたま何人かでやってきた。そしてそのうちの一人と少しばかり話した。
卒業も、就職先も、ちゃんと決まっていて僕とはまるで対照的な彼に、大学生活どうだった?と聞くと、彼はこう言った。
「大学で勉強したことは何も頭に残らなかったよ」と。
その言葉だけなら何度も聞いてきた。しかし言葉ではなく、彼の目に僕は不安を感じた。この大学四年間に費やした時間は一体何だったのだろう、と言外にその虚しさを語る目を僕はハッキリと見た。
 
彼に限ったことではなく、卒業までに必要な授業の数々、そして就職活動にも、もしもこの「無意味であることの虚しさ」が付きまとうならば、いったい大学生活とは何であろう?
大学に自分なりの目的を見出すことができず、右も左も分からない就職活動に勤しみ、自己PRもクソもない日々が、もしも誰かの現実として存在しているとしたら、筆舌しがたい悩みがそこにはあるはずである。

よし、では休学して、インターンでも何でもして、就活できちんと内定が取れたとしよう。しかしそれは大学の実質を一切必要としない日々である。授業時間は相変わらず虚しいままにされている。授業に支払われる金もドブに捨てるようなものだ。
どうせなら大学生である内に、経験できることは全部やっておきたいと思わないだろうか。全てとは言わないが、どうせなら授業にも楽しめる時間があっていいと思わないだろうか。

休学は、留学は、旅は、インターンは、就職活動のためだけの経験だろうか。
否、そこで得た経験をもとに、学問の世界を味わうことだってできるはずだ。
もしかしたら就職ではなく大学院という選択肢も見えてくるかもしれない。
休学は一つの道なのではなく、様々な道に通じる広場なのだ。
 

ベンチャー
 

「大学関係者、および教育事業に携わる皆様へ」

ここからは大学や教育事業に携わる「社会人」の皆様に、現在大学生である僕からお伝えしたいことを書こうと思います。稚拙な文章ですが、どうかご容赦して頂いて読んでもらえれば幸いです。

産業界からの強い要請もあり、文部科学省は「大学のグローバル化」を強く推進している。そして学生を、企業の即戦力として、グローバル人材として、社会に輩出するべきだという意見も、世間一般に広く流布されている。大学がサラリーマン養成所になりつつあるのは、きっと僕が言うまでもなく周知されていることと思う。
 
四年制の大学を出れば正社員になれて、最初は何もできなくても働き続けていれば年功序列で給料は上がる、家庭も子育ても可能になる。この共同幻想としての物語が現在においては崩壊していることを、若者は実感レベルですでに知っている。だからこそ、学生にとってもサラリーマン養成所はありがたいと言えるのかもしれない。
 
サラリーマン養成所としての大学へと変化する動きは、市場の論理によって根拠づけられる。というのは、奪い合うべきパイとしての若年層が減っていき、他方では産業界からは即戦力の要請があり、国家政策もそちらの方へシフトしているために、各種の助成金も理系の学問領域に偏りがちになっている。役に立たない学問は要らない、という言説がかなりの支持率を持っているように見える。
 
教養や知性としての学問よりも、市場経済の景気を上向けるために、グローバル経済の波に乗るために、大学の様々なリソースを割かねばらない。そう言いたげなキャッチフレーズは、至る所で目にすることができる。
 
ただしかし、バブル景気が弾けたあとの資本主義社会における沈鬱な空気を払拭するために試行錯誤した結果が、ビジネス志向の大学教育だとするならば、それと同時にもう一つの壊れかかっている社会に目を向ける必要があると僕は思う。
 
崩壊しかけているもう一つの社会、それは戦後民主主義である。なぜ崩壊しているのかについては末尾にリンクを貼っておくので、そちらを 参照してもらいたいが、大学の役割が真に発揮されるべきはこちらの社会を立て直すためではないだろうか。
この主張は何も僕の思いつきではない。以下に引用する通り、他でも上がっている声である。

「民主主義とは、すべての国民が賢くあらねばならないという無茶苦茶を要求する制度です。その無茶苦茶を実現するために大学というものは存在しています。企業に有為な人材を育成するためではない」(山口裕之『コピペと言われないレポートの書き方教室』新曜社、95頁)
 
労働市場のために利口であることを学生に教えることよりも、民主主義とは何か、どんな知識と知性を必要とするのか、こうしたことを多角的により深いところから教えるべきであり、これができるのは現状では大学しかない。大学が用意できる様々なリソースもこの問題にこそ適していると思うのだが、いかがだろうか。
 
さらに言えば、何も民主主義といった大風呂敷を広げなくとも、学生がこれから生きていく生活のなかで、数字や金ではない拠り所を自ら創り出す力を、大学は鍛えることができるのではないだろうか。
 
今回は休学×学問という形で僕の意見を述べたが、休学は反学問ではない。
休学は、社会と人生の流れに対して無自覚な態度であることを促す言説への反抗である。そしてまた、前半で説明したような教育業界のエスタブリッシュメントに風穴を空ける可能性として、民主主義を担う主体としての市民を育む可能性として、僕は休学を考えている。

このブログ記事をネタにして、社会人の皆様が議論を交わしていただければこれ以上に嬉しいことはない。
                             
白井耕平
 

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白井 耕平

白井 耕平

武蔵大学の人文学部2年。 アジア、アフリカが好きなヨーロッパ文化学科。 休学して世界一周していました。 旅関連の記事を発信していきます。 白井 耕平の詳細プロフィールページ
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