休学経験者が当時の経験や考えを語る共同ブログ
earthquake~地震が作ったぼくのきっかけ~
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前回の記事⇒impact~想像をはるかに超える衝撃~
 
ぼくが団体の活動に参加したのは第2期から。1週間クールで行う活動の2週目で、第1期から継続参加している者もいた。

ぼくのチームのリーダーもそうだったんだけど、体調を崩して途中で帰還した。

他にも体調を崩す者が続出していた。

団体は1日間活動を休止することに決めた。外から来た者が被災地の医療機関に頼るなんて足を引っ張ることできない、と。

 

それぞれ思い思いに休日を過ごしたその夜だった。

断続的に余震は続いていた。緊急地震速報が鳴るレベルの大きさのものも。地震が来るときは地鳴りが聞こえるからわかる。慣れてきた頃には地鳴りの雰囲気で地震の大きさもわかったものだった。

その夜も地鳴りが響く。いつものように。揺れ始める。大きい。打ち合わせ資料をとりあえず片付ける。まだおさまらない。横揺れが一気に縦揺れに変わる。足を取られるほどの揺れ。今までに感じたことのない恐怖を感じながらなんとか外に出る。ようやくおさまる揺れ。別の建物に寝泊まりしている女子の様子を見に行く。落ち着いている者のほうが少なく、泣き出したり、取り乱したり、過呼吸になったり。かく言うぼくも足は震えていた。

 

震度6強。

 

人生で一番大きな地震だった。あれから2年以上経つ今でもあの地震より大きなものには遭遇していない。

その夜はとりあえず車中泊となった。何が起こってもいいように。

幸い、津波が来なかったことはラジオで確認できた。

ただ、そんな状況で寝れるわけがない。恐怖感で手足は震えたままだし、取り乱す女子を前にして情け無いこと言ってられないし、リーダー達は駐車場にテント張ってなんか楽しそうにしてるし。

 

眠れないながらも目をつむっていると、建物内に戻る判断が下されたらしく車外に出るよう指示を受ける。午前も2時をまわった頃だ。

とりあえず諸々の方針は次の日に伝えられるとのことで、メンバーは皆眠りについた。

 

次の朝告げられた決定は、

 

活動中止、撤退

 

というものだった。

ただし、団体そのものの活動が止まるわけではない。

来期からはこれまで通りの活動が行われる。

よって、来期につなげるため避難所まわりが滞っていた南三陸チームの中から残留して活動する者が選ばれる。ぼくの名前がその中にあった。

正直、不完全燃焼感しか持っていなかったぼくはホッとした。

だって活動は実質2日しかしてないし、なにもできていないんだもん。ただ被災現場を見て、上っ面だけのコミュニケーションを取っただけだ。

ぼくのバイタリティと、マッピングで活躍した地図読み力が必要とされたようだ。なにしろ、地形が変わってしまっている被災地ではナビは通じないし、誰もが初めて訪れる場所だった。その中で、効率よく避難所をまわる作戦が求められた。ぼくは地図を読むのは好きだし、得意だった。

 

荷物をまとめて仙台へ戻る仲間を見送り、夜を迎える支度に取り掛かった。

前夜の地震で登米もライフラインが止まってしまっていた。

給水所で水を汲み、ライトを各所へスタンバイ、ストーブの灯油をチェック、次の日は南三陸から直接仙台へ戻る、そのための用意をして、早めの夕食を食べ終わった頃には辺りは薄暗くなっていた。

 

今思うと、この夜がぼくが休学をしてまで被災地に残りたかった理由の一つとなったに違いない。

何を話したかなんてそんなに深くは覚えてないけど、このメンバーともう少し関わっていたいと強く思った記憶はある。

真っ暗で寒いんだけど、寄り集まってお互いのことを話したり、その場で豆から挽いてくれたコーヒーを飲んだり、なんかあったかかったんだ。なんかワクワクしたんだ。

楽しくて頼りになる仲間との時間、それを作ることがぼくが休学した理由の一つ。ここでしか出会えない、今しか関われない、そんな仲間。彼らと一緒ならきっと何かの力になれる、そんな気がしたんだ。

 

だけど、現場での成果はなにひとつあげられていない。

そんな焦りをなんとか鎮めて最終日を迎える眠りに落ちた。

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深尾 大樹

深尾 大樹

早稲田大学4年次、2011年4月〜9月からの半年間被災地支援をしていました。 深尾 大樹の詳細プロフィールページ
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